こんにちは。
あおましいろです。
みなさま、「家事しないDAY」というものがあることをご存知ですか?
もちろん、公的なものではなくて、とある方が考えついて広めようとしていることなのですが・・・。
家事ってなんだ
家事といえば、あおましいろ。
あおましいろといえば、家事。
というくらい、家事についてはあれこれと思うところがありました。
過去には、家事について熱く語り、まとめた記事まであります。
Chat GPTにも聞いたことがあります。
おそらく、家庭の数だけ、ひとの数だけ、家事の定義も種類も達成度もちがうんだろうなぁと思います。
この家事ってなんだ?に加えて、家事って誰がするのさ?ということにも、とても強い関心を持っていました。
強い関心の裏側は、今更ですが、「女が、母が、妻がそれをしなくてはいけないのか」という思い、もっといえば「いい加減しんどいぜ」という心の叫びがあったのです。
家事しないDAYとは
内容
毎月、第一・第三水曜日には、家事をしない
内容はこれだけ。
目指すのは、休みのはずの日曜日に仕事をしていると、
「え?日曜なのに、仕事してんの?」
と言われるようなテイストで、
「え?家事しないDAYなのに、家事してんの」
と言われるくらい、家事をしない空気感が浸透すること。
もっと言うと、家事しないDAYにはお惣菜が安くなったり、レストランや居酒屋が安くなったりする。
個人的には、ホテルがお手軽に気楽に気安く、・・・安く一泊できるようになるとか、そういうのがいいなぁ。
そんな風に、社会全体の仕組みがシフトしていくようなこと。
家事しないDAYに何が起こるのか
例えば、朝起きてお母さんが起きてきてなかったりすると、
「あ、そうか。今日は家事しないDAYか」
みたいなことが、家族に起きるのかもしれません。
うっかり洗濯回そうとして、
「うお!今日は家事しないDAYやんか~!昨日のうちにしとけばよかった」
ってことになるとか?
知らんけど←
いや、やったらええと思うけど←
家事しないDAYは浸透するのか
浸透するかしないかではなく
では、家事評論家のあおましいろ←は、どんな風に反応したのでしょう。
- カレンダーに「家事しないDAY」を書き込む
(旦那氏が何とも言えんようすなのを見ないふりする) - 当日、実行(しようとする)
《結果》まったくしなくて済むわけない。 →しなくていいことはしないよう心がける。 - あおましいろに起こったこと
あれ?家事って別に、「どうでもええわ」
「家事は、自分がひとりで生活していくために必要不可欠な技術であり、最低限身につけておくべきことだ」
これまであおましいろは、こんな風に思っていました。
「だから、家事は『みんなで』する必要がある。なぜなら、みんなが生活しているからで、生活に必要な家のことをひとりが担うべきではないのだ」
と。
ところが、ベクトルを真逆に向けて「やらない努力」をしてみたら、「家事、どうでもええわ」ってなったっていう・・・。
手放すことなのかもしれない
自分の身に何が起きたのか、まだ整理しきれていませんが、「こだわりを手放せた」と言えるような気がします。
あるいは、刷り込まれていた価値観から自由になれたというか。
これまでにも、「日本は家事の達成基準が海外に比べると高い」という話を目にしたことはありました。
要するに、担い手が偏っている上に、やり過ぎていると。
なるほどな、と思いつつも、それが自分の家事の負担感を軽くすることにはつながらなかったわけです。
なぜか。
それは、「家事ができないと、自分の評価が下がる」気がするから。
評価されるものがあるとすれば、「妻、嫁、母」とかいう役割なのですが、あおましいろ個人の評価に影響が及ぶような気がしていました。
しかも、恐ろしいことには、他人からの評価だけでなく、自分自身からの評価も下がるんです。
刷り込まれた価値観ゆえに。自分自身の思い込みゆえに。
「とはいえ」論に、意味はあるのか
「家事しないDAY、やってみようや」
と発信されたとき、
「いやいや、やらないと困る」、「やらないと自分がストレス」、「ためると次の日の自分がつらい」
色んな意見が出ました。
「しないっていう話じゃなくて、旦那さんにいかにしてもらうかなんですよ」
みたいなね。
結局のところ、
「とはいえ、家事はしないわけにいかんでしょ」
聞いていた人のほとんどが、そう思ったかもしれません。
かくいう、あおましいろもそう思ったうちのひとりです。
でも、さらに思いました。
「家事はしないわけにはいかないなんてことは、多分分かっていて、それでもこの人が言う意図はなんなんだろう」
海外をよく知っているひとですから、本当に(日本人がやってるような)家事なんてせんでもええよ、と思っているかもしれません。
でも、そうじゃないかもしれない。
だとしたら、何が伝えたいんだろうか。
そんなことを思ったので、まずは「家事しないDAY」をやってみようと思ったのでした。
家事の負担は物理的なもの・・・だけじゃない
「とはいえ」
あおましいろは、ここ数カ月のうちにこの言葉にずいぶん向き合ってきた気がします。
長女の学校の行きづらさに向きあおうとすると、
学校は、無理して行かんでもいいんじゃないか。
勉強も、自分がしたいと思えるときにすればいいんじゃないか。
という論調のあとには、たいてい、
「とはいえ、社会に出たら・・・」
という文脈がつながるんです。
かつては、あおましいろ自身も自分のなかの「とはいえ」に苦しめられてきました。
まぁ、だいぶ克服できたと思います。
昨年の長女の担任に、ときどき「とはいえね・・・」って言われてましたが、無事乗り越えることができましたから。
家事しないDAY・・・とはいえ
うっかり何かをこぼしてしまって、あわててふきんで拭きとり、そのふきんを台所で洗いました。
これは、家事でしょうか。
生活において、どこからどこまでが家事、なんて決めることはできないんだなぁと思います。
だとすると、家事をしないなんて日は成立しないような気がします。
じゃあ、家事しないDAYは何なのか。
あおましいろの結論は、
「家事を抱え込んでいる、女性、妻、嫁、母親自身が、家事を精神的に手放すこと」
です。
物理的に手放せるならもちろん手放す。
多分、とりあえず「家事しない」は試すほうが、早い気がします。
で、実際家事をやらないことで、「自分の評価が下がるのかどうか」を考えてみてはどうかなと思うのです。
特に、自分自身からの評価です。
もちろんこれは、「良妻賢母を目指して、メンタルの調子を崩したことがあるあおましいろ」という個人の見解です。
他人の評価に常に左右され、自分を大事にしてこれなかった反省が言わせているところがあります。
なので、家事が負担にならないひとには、まったく当てはまりません。当然ですが。
自由にありのまま生きる
家事、家事言わない。
どこからどこまでが家事かなんて、どうでもよくて。
ただ、生きてるだけのことなんだなぁと思うことが増えてきました。
生きるために必要ならすればいいし、不要なら手放せばいい。
好きなことならすればいいし、好きじゃないなら自分は手放す。
女だし、妻だし、嫁だし、母だけど、だから家事をしなくちゃいけないわけじゃないことを、当事者の自分が受け止める。
家事しないDAYは、今のところあおましいろにそんなことを教えてくれているところです。
家事しないDAYが気になったら、まずは、カレンダーに書いてみてくださいませ。
書いたら、「家事をしない努力」をしてみてください。
おもしろい自分や誰かや、何かがみつかるかもしれません。
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